私が小学生の頃、牧師は住む所の無い人を教会にお連れしては、お世話をしていました。
5年生の時です。病気の年老いた男の人が来られたのですが、間もなく亡くなられました。その人は創価学会の信徒でしたので、ご本尊様を持っていました。
葬儀も終った或る日、主日礼拝のためにオルガンの練習の練習をしていましたら、突然、数人の男の人が礼拝堂に入って来ました。たまたまそこに居合わせた牧師を取り囲むと、険しい調子で詰め寄るのでした。どうやら彼等は亡くなった男の人の仲間のようで、牧師がご本尊様を粗末に扱うのではと恐れて、取り返しに来たようでした。
牧師はスッと彼等から離れると、説教台の上の大きな聖書を抱えて戻っていきました。毎週の説教で、鍛えあげられた牧師の朗々とした声が響きます。
「僕等にとってはこの聖書がご本尊様のようなものです。だが」いきなり聖書を両手で振り上げると床に叩きつけました。
「こうやって投げ飛ばしても」その聖書の上にどっかりと腰を下ろすと、
「こうやって尻の下に敷いても、僕等の神様は決してバチを与えることはない!」そして牧師室から1つの巻き物を持ってくると、
「だが君等の大切にしているものを丁寧に扱うのにやぶさかではありませんよ。」と言うとその巻き物を捧げ持ち、うやうやしく彼等の前に差し出したのです。一人が無言でそのご本尊様を掴むと、彼等はこそこそと礼拝堂から出て行きました。
しばらくの間、牧師はそのまま立っていましたが、やがて床の聖書を拾い上げ、表紙をそっと撫でると、元のように説教台へ置きました。そしてひょいっと私の方を振り向いて笑いかけたのです。
オルガンの椅子に座りっぱなしの私は、途端に緊張が解けて、先程の牧師の芝居がかった動作がおかしくて吹き出してしまいました。牧師と2人、大笑いしたのですが、牧師のあの自由な行動に、私は、強く心を揺さぶられたのでした。
バプテスマを受けてだいぶ経ってからです。牧師がいつも言っていたインマヌエルー神は我々と共におられるーという現実を、初めて実感したのがあの出来事だったのだと、気付かされました。
彼等の険しい言葉を聞きながら牧師は亡くなられた男の人を思い浮かべていたに違いありません。だから人の命よりももっと大事なものがあるといわんばかりの彼等に
「本当にそうなのか」とあの行動で疑問を投げかけたでしょう。あの時、牧師と共におられた神―聖書をそっと撫でざるを得なかった牧師の心の目には、十字架上のイエス様の姿が映っていた。そう思えてならないのです。
10月9日礼拝式での証